山形県の古墳 (村山・置賜地域) |
(山形県) |
1.村山 | 2.置賜 |
概要 |
山形県は、庄内(しょうない)・最上(もがみ)・村山(むらやま)・置賜(おきたま)地域に分けられる。それぞれの地域の地理的・気候条件、地域の成立ち、江戸時代の幕藩体制のなごりから、方言・文化が少しずつ異なっている。 山形県の古墳時代は4世紀中葉以降で、大型古墳としては、前方後方墳である宝領塚古墳(米沢市)と天神森古墳(川西町)、前方後円墳の稲荷森古墳(南陽市)などが出現する。古墳は村山・置賜地方に偏在し、庄内地域には菱津古墳(鶴岡市)をみつけるが、最上地域にはみつけられていない。ここでは、地域の成立ちと大和(倭)王権との関連を意識しながら、代表的な村山・置賜の幾つかの古墳を訪ねた。 同時に、 寒河江市郷土館(寒河江市)、山形県立博物館(山形市)、うたむき風土記の丘考古資料館と高畠町郷土資料館(高畠町)、川西町埋蔵文化財資料展示館(川西町)を見学した。ここでは、旧石器時代から古墳時代・奈良時代までの各地域の考古学的資料や縄文時代の遺跡・出土品に接する事ができた。。 山形県は、大化改新後は陸奥国に属し、奈良朝では和銅5年(712)に出羽国に属している。会津・陸奥の影響もあり大和朝廷への帰順は早い。持統天皇3年(689)に置賜郡の柵づくりの指導者である蝦夷の脂利古(しりこ)の男、麻呂と鉄折(かなおり)が仏教に帰依し、髯髪をそって出家することを許されたとの記事が書紀にある。この地への正式な仏教伝播はこの頃とされる。 |
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1.村山地域 | ||||
寒河江(さがえ)市 | ||||
寒河江市郷土館 寒河江市寒河江字長岡丙2707 | ||||
明治初期の旧西村山郡役所・会議場を移築復元した建物の内部に考古学資料が展示されている。寒河江市の考古学の歴史を示す昭和7年の新聞記事がある。八幡原の巨石群がストーンサークルかどうかが議論された(結果は否)こともあるらしい。寒河江市教育委員会が昭和62年に発掘調査した柴橋遺跡は、縄文中期の集落跡で、複式炉埋設土器(深鉢)などが展示されている。山形道建設に伴い発掘調査された高瀬山遺跡は、最上川と高速道の西東、寒河江SA前後を含む広大な面積を占め、出土した土器破片は前期・中期・後期に亘る。近くには古墳時代後期から平安時代の平野山窯跡群もある。縄文晩期から弥生時代にかけての遺跡として、高瀬山東縁に大正年間から知られていた石田遺跡があり、昭和55年の調査で再葬墓がみつかっている。出土する土器は石田工式土器として知られ、亀ヶ岡式を残した弥生土器として注目される。ほかに、山岸遺跡(縄文前期)などの出土品が展示されている。寒河江市には、天平の名刹・慈恩寺もある 最上川の北河岸段丘は、チェリークアパークとして総合公園化が進み、寒河江市民浴場はその東隅に位置する。北側(写真後方の森)が一段高くなっていて、高瀬山の東南端になる。右側の道を登っていくと高瀬山方形周溝墓に到着する |
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高瀬山方形周溝墓 (たかせやまほうけいしゅうこうぼ) 寒河江市嶋 | ||||
市民浴場側から坂を登り、山形道の陸橋右向こうに方形周溝墓がある | 道路沿いに、それと認められる小さな標識があるだけ | |||
この一帯がそうらしい。三つほどあり、中央部は未発掘と聞いた。未調査の部分が多いようだ。高瀬山遺跡はこの辺り一帯を含み、先史時代の人々の活動の場であった。最上川の恵みを受け、高台で周囲に平野が広がっている。高速道・公園施設の敷設と住宅地開発が進んでいる | 陸橋の手前左に高瀬山古墳らしい土盛がある。附近には公園整備のブルドザーが稼動している。山形道沿いに西に行くと、陸橋に「高瀬山古墳橋」の名が付いている。附近は新しいスケートセンターや公園、寒河江SAが前方に見え、眼下に最上川が流れる景勝地である | |||
山形市 | ||||
山形県立博物館 山形市霞城町1番8号 | ||||
霞城公園内にある。第一展示室は「豊かな自然とその恵み」で、山形地方の成立ち・自然環境など、第二展示室は「山形の大地に刻まれた歴史」で、飯豊町上屋地遺跡、村山市古道遺跡の縄文土器、舟形町西ノ町遺跡の縄文ヴィーナス、酒田市生石3遺跡の弥生土器、山形市宮前遺跡の土師器、山形市大ノ越古墳の大刀と剣など、山形県を代表する先史時代の遺物が展示され、有史時代では、出羽国の変遷と仏教寺院、藩政時代の城下と村の暮らし、三山信仰などについての展示がある。 | ||||
縄文時代の展示 |
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渦巻文が鮮やかな彩漆土器 縄文前期後半 (重文 高畠町押出遺跡 複製) 赤漆を塗った表面に黒漆で渦巻文を描く。遺跡が低湿地の良い条件にあったために見事に残された |
左写真2枚は、西ノ前遺跡出土の縄文ヴィーナスと呼ばれる土偶(中期後葉、高さ45.0cm)。平成4年の発掘調査で、頭部・左と右の脚部・腰部・胸部が別々に同じ捨て場からみつけられ、完全に復元された。特別な埋納があったかどうかは不明である。日本で最大の土偶で国重文である 右写真は、真室川町釜淵C遺跡出土の土偶(晩期、高さ23.4cm)で、遮光器土偶の末裔と位置づけられる結髪型の土偶(国重文)である。 両者ともに複製とあったが、縄文ヴィーナスは当博物館に保管されているはず |
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古墳時代の展示 古墳時代の集落遺跡(宮町遺跡など)からの出土品 山形県立博物館に常設展示されている 大ノ越古墳からの出土品 |
展示パネルに示された「山形県の古墳時代集落遺跡、古墳、祭祀遺跡」 (村山・置賜・最上地方を切り抜き、一部文字を拡大、追加) 表示外の庄内地方では、鶴岡市に菱津古墳と集落遺跡、秋田県との県境(鳥海山)附近に集落遺跡がある。 今回の旅で訪れなかった興味深い古墳が幾つかある。 お花山古墳群は山形市青野にある。5世紀後半とされ、大正4年には39基あった円墳群で、半径捩文鏡、乳文鏡、玉類が出土した。(出土品は県立博物館に常設展示) 山形市(山辺町)の大塚天神古墳は、平成8年から調査・発掘され、埴輪をもつ大型円墳(径36mで15m幅のテラス付き、周溝あり)で、4世紀後半の首長墓として注目されている。 河島山古墳は村山市にあり、旧石器から平安時代の河島遺跡の中にある。5~6世紀の円墳(径24m、高2.6m、箱形石棺)がある。 米沢市の方形周溝墓は、比丘尼平(びくにだいら)にあり、高瀬山と同様に古墳時代前期(4~5世紀初)まで造られた |
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大ノ越古墳 (だいのこしこふん) 山形市門伝 | ||||
直径約15mの円墳。 副葬品より5世紀後半の築造とされる。昭和53年、道路工事中に偶然発見された。単鳳環頭大刀、直刀、鉄剣、鉄斧、吊り金具、刀子、冑残欠、土師器、杏葉など副葬品が豊富である。南方の菅沢古墳2号墳と共にこの近辺で最古の古墳 | ||||
県道458から県民の森への道に入るとすぐ左にある。標識も分かり易い | 山形市教育委員会の説明板 | |||
復元された全景 径16mの円墳 周囲に周溝があった | 上下に二基の組合せ箱型石棺があり、この中から副葬品が出土した | |||
菅沢古墳2号墳 (すげさわこふん) 山形市菅沢 | ||||
直径約52m、高さ約5mの地形の高まりを利用して造られた2段構成の円墳。5世紀後半頃の築造と考えられている。下段の周囲には幅8m前後の周溝が回っている。円筒埴輪や家・楯・靭・甲冑形などの形象埴輪を持つ。 | ||||
大ノ越古墳から県道458を南に約2km、右に老人ホームへの道に入り、すぐ右に鋭角に登り道がある。標識は注意するとよく見える | 出土した形象埴輪の写真がある。 山の裏側に周ってしまい、農作業の人や老人ホーム職員に尋ねたところ、皆さん丁寧に教えてくれた | |||
山形盆地を見下ろす丘上にある。墳丘もよく保存されている | 県道458にあるラーメン屋さんから眺めると、地形利用の様子・墳丘形が良く分かる |
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